3月あたりから娘と毎日遊んでいて、すこぶる仲良くなった。
6月で2歳になり、いよいよおしゃべりが止まらない。
今、私は学術団体で働いている。
アルバイトでも、派遣でも、何でもよかったのだけれど、しばらくは安定した場所にいたほうがいいと思った。
ちょうど、生き方や働き方、将来の展望などを練り直そうと思っていたから、現在の情勢はある意味タイミングがよかった。
それで、私の人生を狂わせたとも言っていい、娘の存在が愛おしすぎる。
すべて、娘を中心に考えてしまう。
どうしたら、娘が寝る前に仕事を終えて帰れるかとか、娘が健やかに暮らすためにお金はどうしようとか考える。
それは一見、当たり前のことなのかもしれないが、私にとってはとても特別なことなのだ。
私は、これまで自分がいかに稼ぐか、あるいは自由にやりたいことをやるかを考えてきた。
自分が楽しく過ごすことで、家族も楽しく過ごせると信じてきた。
妻は、私がのびのびと生きられないのは嫌だと言ってくれた。
だからこそ、フリーランスとしての活動も許してくれたし、一生懸命に支えてくれた。
ただ、その先に今があった。
楽しく過ごしながら、自分も我慢せず、平和に暮らすことができている。
会社や仕事に安定なんてないと思って生きてきたけれど、冷静に分析すると安定は存在していた。
ただ、その安定は誰もが得られるわけではないのである。
これまでずっと続いてきたもので、かつこれからも続きそうで、欠員がなかなか出ないポジションだ。
これまでの自分では発想すらできなかった組織に属した。
とある学術団体としか言いようがないのだけれど、とにかくそこにしばらくいることにした。
朝起きて、みんなでご飯を食べる。
仕事を淡々とする。
夕方早めに終わる。
帰ったらみんなでご飯を食べて、娘と遊ぶ。
夜は妻とおしゃべりしたり、アニメや映画を観て楽しむ。
少しだけ、自分の時間を過ごして日記を書いたりして、寝る。
その繰り返しである。
私はこれまで、こういった生活を否定してきた人間だ。
変わらない、平凡で退屈な毎日だと、揶揄してきた。
ずっと、新しさや刺激こそ人生を輝かせるものと信じてきたのである。
でも今ではそうでもないと気づいた。
毎日同じことの繰り返し。その価値を見出した。
当たり前で、平凡で、何も変わらない毎日をいかに充実させるかが人生と考えた。
というのも、外部から何かを仕入れて楽しむのは非常に簡単なのである。
おもしろいコンテンツが溢れる世の中で、どれだけ時間を費やしても味わいきれない。
それであれば、外部はほどほどに楽しみ、日常を1年、5年、10年と過ごし、変わるもの、変わらないものをただ感じる生き方もいいと思った。
私や妻は老い、娘は成長する。
季節や街の移り変わり、人間関係の変化、日本や世界の変化を目で見て肌で感じる。
それだけでも格別なおもしろさを得られる。
そのことに気づいてしまった。
どうにもうまくいかないから、外部に求めてしまう。
私はその典型だったように思う。
刺激を得ているうちは、気持ちが楽になるのである。
何かを成し遂げたなら公開し、誰かに褒めてもらえる。
そしてまた、何かを求めて旅に出る。
渇望を何かで埋めるだけである。
もう、それは必要ないと思った。
いくらでも潤えばよくて、自分の心を磨いていけばよくて、わざわざ目を背けなくていい。
私は、家族と楽しく暮らしたい。
読書や映画を楽しみたい。
仲良くしたい人とだけ、何度も会いたい。
それでいいのである。
妻と娘が、毎日「おかえり」と言ってくれる。
あぁ、元気でいたいなと思う。
家族を守りたいと願う。
ただそう思って、1日を大切に過ごしたい。