【読書感想】カントの人間学で、友情も愛情もない生きかたを知る

 

 

週2読書家のやっちです。

今週じっくり読んでいたのは「カントの人間学」。

人のエゴイズム、嫉妬心、虚栄心、女性への見方など、人に関する抽象概念を見事に言葉で表していることがよくわかる本でした。

僕は本を出そうと思っているのですが、人の表現って環境や心境に左右されるものと考えています。

それで、自分の探求するものを最後まで人との関わりなくやり続けたカントの生き方に興味を持ち、もっと知りたいなと思った次第です。

カントを知りたいならカント作の「人間学」を読めばいいのですが、その入門書となる本から始めてみました。

 

人のエゴイズムには3種類ある

人はエゴの塊とはよく聞きますが、エゴって抽象的なので引用しておきます。

エゴイズム(egoism)

  1. 自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式。利己主義。
  2. 哲学で、自我だけが確実に存在し、他は一切認識不能であるとする説。唯我(ゆいが)論。独我論。

-デジタル大辞泉より引用

 

それで、カントが言うにはエゴイズムは論理的、美的、道徳的の3種類に分けられるということなのです。

それぞれを本書より抜粋します。

 

論理的エゴイズムは自分の判断を他人の惰性にも照らして吟味してみることを、無用とみなすもの。

美的エゴイズムはたとえ他人が彼の詩や絵画や音楽などをどんなに悪評し、避難し、あるいは嘲笑をすらしようとも、自分自身の趣味だけで十分満足している人。

道徳的エゴイズムは、いっさいの目的を自己自身の上だけに限り、おのれに役立つものより他のものにはなんの効用をも認めない人。

 

論理的エゴイズムは正しいかどうか? がとても重要です。

たとえば会社の上司で相手の考え方を吟味せず、自分の考え方が正しい前提で話してくる人がいますよね?

その人の言うことが正しいかどうかはさておき、会社のルール上それが正しいことであれば、これは論理的なエゴです。

 

美的エゴイズムはいわゆるアートに生きる人の考え方なのではと思っています。

自分が楽しければそれでよくて、たとえ人に否定されたり笑われようと、自分が「美」を感じるものに関してはとことん追求するのです。

 

道徳的エゴイズムがもっとも難しく感じる人が多いのではないでしょうか。

ただ、実はこの道徳的エゴイズムこそ、現代人にもっとも多いエゴでしょう。

というのも、「自分にとって利益になりえなそうなことは一切排除」ということだからです。

恋愛でいえば、恋愛は男女のちがいへの理解や振る舞い方をマスターすればいいのであって、日常での暮らしや自己対話は自分には関係ないとするものです。

彼と別れずに良好な関係を築くためにはどうすればいいの? と考える人には、この記事の内容は意味のないものに感じるかも知れませんが、実は大いに繋がっているのです。

自分はどんなエゴイズムを持っているか、是非とも考えてみてください。

 

 

人は友情も恋愛も遠ざけて生きられるのか

イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは著書「幸福論」の中で、自分と社会との愛情ある繋がりがいかに大切であるかを説いています。

しかしカントにおいては、人の繋がりは何かを探求することの邪魔になると感じられる言葉が並びます。

人間は他人に対して自分を打ち明けたいという要求を強く感じる……。

しかしまた、他面において他人が自分の思想をこのように暴露して悪用するかもしれないという恐れによって制限され警告されるので、

人間はやむをえず自分の判断(特に他人に関する)の大部分を自己自身の胸のうちに秘めておくことを余儀なくされるのを悟るのである。

……なぜなら、自分の判断は慎重に保留しておく他人が、自分の真情吐露を自分に不利になるように使用しかねないからであり、

また自分自身の失策を打ち明けることについては、たとえ自分が他人に対してまったく腹蔵なくみずからを語るとしても、

他人は他人で自分の失策を隠すであろうから、自分だけが他人からの尊敬を失うはめになるであろうからである。

-本文より引用

 

カントの考えに反し、私たちは生きている限り社会に影響され、人に影響され、良い意味でも悪い意味でも変化していく生き物と思います。

だからこそ、己の探求に身をささげ、言葉の通り自分の力で自立していくカントは、地道という言葉が浅く感じるほどに愚直な姿勢を示しています。

現代人には、インターネットという一瞬で人と繋がることができてしまうツールがあるからこそ、当時よりも繋がりは増えるばかりです。

そんな中で、カントまでいかずとも、自分のやりたいことに対して人間関係に制限を設けながら取り組むことは、もはや必須のこととなっています。

カントは友情と愛情を捨てた分、つまり交流を捨てた分、研究への時間と深みはとてつもないものだったと考えられます。

僕にはとても考えられない姿勢です。

 

 

虚栄心と嫉妬心を捨てるのは自分を守るため

カントが他人と距離を置くことは、人間嫌いが理由ではないと考えられています。

何よりも自分が大切であったことが理由であり、自分を守るために実行したことです。

人は、誰かよりも優れていることで満足し、自分よりも優れている誰かに嫉妬します。

それならば、虚栄も嫉妬もなくすため「誰か」がいなければいいという考えがカントにはあったと思います。

カントが凄まじいのは、誰かと親しくなることを捨てて社会から逃げるにはいたらず、あくまで社会の一員として存在しながら人と距離を置いたことです。

しかも、人間を突き放すのではなく、自分の哲学にどんどんハマり、結果として距離ができた類いのものと受け取っています。

だからこそカントの哲学では、たとえば友情について「友人というものは存在しないのだ!」と言い切ることができるのです。

カントがただせまい世界で戯言を言っているだけの人であれば、今日ほど有名にはなっていないことはすぐに理解できると思います。

 

 

嫌われる勇気とのちがい

自分自身を生きることを大切にしている皆さんは、ベストセラーとなった「嫌われる勇気」という著書をご存知なのではないでしょうか。

「アルフレッド・アドラーについて知るならまずはこの本」と言われるほど、その考え方がわかりやすく描かれています。

アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と説き、今日も私たちの悩みについて的確な言葉を示してくれています。

この本で「他人の目は気にせず、自分は自分のままでいいのだ」と気づいた人はとても多かったことでしょう(実はアドラーの言いたい本質は別であることはさておき)。

そして同じような仲間と出会い、自分の生き方を自由にデザインし、活躍している人も多くいるでしょう。

ただカントの場合は、他者との繋がりにより生じる原因と結果をそもそも絶っていることから、他人と比べるにすらいたっておらず、「ありのまま」の意味がちがうことがわかります。

嫌われてもいいので、自分を貫いていこう! という理解でカントを見つめることは、その領域に踏み込むことを難しくするでしょう。

未だにさまざまな論が存在するだけで、カントという人間についての本当のところはわからないことが、カントの本当の魅力なのかもしれません。